SEIKOSEIKO

2024.08.28

腰痛だった私 2

こんにちは。

ピラティススタジオ Pilates Plus エノモトセイコです。



子どものころから腰痛です

私は小学校の高学年から腰痛がありました。

これを言うと、大抵の人は「えー、子どもなのに腰痛ってあるの?」と

言われるのですが、結構深刻に痛かったです。

5年生というと11歳の頃に左の足の親指が付け根のあたりからしびれたようになって

触ると痛いような ビリっとして何とも不快なのです。

それでも 泳ぐのも走るのも人より早くて 運動は大得意でした。

時々、腰が痛くてだるくて、腰をトントン叩いてみたりしてはいましたが

パワー系の運動をするのに不自由はなく たまに不安になったりはしていましたが

子どもなのでほったらかしにしていました。



前回は子どもの頃、体育座りが地獄だったこと

ダンスを始めて、のめりこみ過ぎて腰痛は悪化していったこと

結婚して子どもを5年で3人産んで 体調はそれまで最悪の状態になったこと


でも、末っ子を連れて家の横のスポーツジムでベビースイミングに通うことに

したところ 私の腰痛はみるみる良くなったことを書きました。


今回は小学生の私が運動を好きになったきっかけと腰痛が出始めた頃の話です。

何しろ50年近く前の話になってしまうので

子どもだったこともあり記憶も曖昧なところもあります。

でも運動に関することは、割と鮮明に覚えているんですよね~。

こういうのを「過去の栄光」というのでしょうか。

「年寄りが昔の自慢話をする」みたいにならないように気を付けます。



虚弱な子でした

物心ついた時から 春と秋には体調が劇的に悪くなって

喘息の発作を起こしていました。

小学校に入っても喘息で休むことも多く、

学校に行けても体育ができないということはしょっちゅう。

動くと辛いので、体育をしたいという願望もそんなになくて

苦しいのを堪えてみんながグラウンドでやっているところを

眺めていた記憶があります。

1,2年生の頃はそんな感じで、体育の授業受けていたのかの

記憶もそんなにありませんでした。

身体を鍛える


3年生になるころ、大きな転機があって

喘息がひどいので 神戸にある大きな病院で診てもらうことになったのです。

そこの病院では、1~2年入院して毎日自分の喘息の原因となっている

アレルギー反応を起こすもの 例えばダニとか動物などの抗体を作るために

アレルギーの原因物質を注射で体内に少しずつ入れていくという治療をする

ということでした。

そうなると、私は小学校を留年することになります。

親は留年を回避するために、私を学校が終わってから神戸まで通わせて

その注射を打ちに行くことにしたのです。

週に2回だったと思いますが、家の最寄駅から私鉄電車でJRに乗り換えるところから

私はひとりで電車に乗ります。

神戸では父親が待っていてくれて、そこから病院まで行って

注射をブスッと刺して帰宅。

1年以上その生活は続きました。

その病院で親が先生に言われたのが

「この子は虚弱すぎるから このままでは長生きはできない。

もっと身体を鍛えて病気に負けない肉体を作りなさい。」

というようなことでした。

親は学校に行き、夏の水泳教室担当の先生にお願いして

本来4年生から入ることができる水泳教室に

「うちの子は4年生の中に入っても同じくらいの体格があるから

紛れ込ませてほしい」とお願いしたようです。

そこから突然、超スパルタ水泳教室に夏休みの1か月間通い

前も後ろもわからないほど真っ黒に日焼けして

確か75メートル泳げるようになったと思います。

家から学校までの道のりも遠くて 片道40分かかって歩いて行き来しました。

それまで発作を起こして具合が悪くなると、学校からバスで帰れるように

バス代を持たされていた私が

夏の間中、往復80分歩いて2時間ほどプールに入る生活をしたら

身体は日焼けで真っ黒、しかも元々背が高く華奢な感じではなかったのが

はっきりと逆三角形の身体になって 肩幅の大きな真っ黒な子どもになりました。

相変わらず季節の変わり目には喘息の発作を起こして学校を休んだり

していましたが、水泳をしたことで運動がとても楽しくて

しかも人より速く泳げることに気づき

今まで体育をほとんどしたことがなかったので

気づかなかったけれど、3年生からあるスポーツテストの成績が

どの種目もちょっといいのです。

「私って運動できるの?」

そう思ったら、今までの分を取り戻したいような気持もあって

私はひとりで短距離が早くなりように練習を始めました。


あまり友達と遊ぶのが得意でなかったのもあって

走る練習は 自分ひとりでできるし

学校の授業でちゃんと成果がわかるので 楽しかったのです。


5年生になると子供会でバレーボールチームに所属しました。

バレーボールは背が高いと有利。

左利きは有利。

力が強いと有利。

そんなわけで、私はバレーボールに向いてる!

と自分ひとりで思い込んでいたと思います。

実はそんな甘いものではなくて

チームでプレイすることの難しさを理解できないまま

2年という月日はあっという間に過ぎ去っていきました。

私のチームは全然強くもなく、大した活躍もせず終了したのですが

私はバレーボールは楽しい!と思っていました。



同じ5年生の時です。
クラスから走るのが速い子から2名ずつくらい選ばれて

市の陸上競技大会に出場させてもらうようになったのが5年生からでした。

走るのが速い子が集められて じゃんけんで出場種目を勝った子から選んでいきます。

こういうところは小学生です(笑)

5年生の時、じゃんけんの引きがものすごく悪くて

走る種目は既に無くなっていて 選手が決まっていない種目が2~3こあるだけでした。

「走り幅跳び」

これ何?

こんなのしかないの?

やったこともみたこともない「幅跳び」という競技をすることになった私。

その頃、足の指の付け根がしびれたようになっていることに気づいたと思います。

でもまだ腰痛という症状は出ていませんでした。

陸上競技大会の練習はそんなにハードでもなくて

むしろ、先生の指導も全くなく

私ともう一人同級生の女の子が砂場で練習をしていました。

その子はスポーツテストで幅跳びが抜きんでて良い成績で

自ら志願して幅跳びを選んだようでした。

そんなサラブレッドと練習しても 自分はじゃんけんで負けて選んだ幅跳びです。

幅跳びが嫌ってわけじゃないけれど、走るのが速い子から選ばれてるなら

走りたいと思いませんか?

しかも、練習しても絶対私はその子と同じ距離は跳べてなくて

「こりゃダメだ!」って感じでした。





大どんでん返し

陸上競技大会の日

市内の小学生で走り幅跳びを飛ぶ子たちが集められ

予選がはじまりました。

何回か跳んで、そこから数名残され

あと3回跳べと言われる中に私もいました。

私くらいの実力でも予選は通過できるのか、、、。

でも、同じ学校のサラブレッドも一緒です。

自分は気楽にいこう。

だいたいファールにならずに歩幅を合わせて飛ぶのも

結構大変で、指導者もいなくて自分たちで勝手に練習をしただけの

私たちにそんな栄光が待っているはずがありません。

そう思って遠くに目をやると、観覧席はトラック競技がメインで見えるところ

私たち走り幅跳びは観覧席から一番遠いところで

芝生が敷かれたところに ひとりぽつんと父が腰かけていました。

父が私を見てくれている!

走り幅跳びは誰の目にも触れないほど観覧席から遠いところで行われていて

走る競技の歓声ばかりが耳に入ってきていて

地味な競技だな~って思っていた私。

でも、父はちゃんと私が見えるところに来てくれていました。

もっとこの競技を楽しもう!そう思えた時でした。


結果私は3位になりました。

サラブレッドは6位以内入賞でした。

彼女はその日、本来の力を出せなかったのかもしれません。

私自身が1番「なんで?」っと納得していませんでしたが

学校に帰っても結果は同じでした。



今思うと、バレーボールも走り幅跳びも

飛び跳ねる競技です。

バンバン着地して衝撃を受けて

そもそも私は反り腰だったと思います。

母親に「はと胸でっちり」と言われていました。

そこにジャンプの着地の衝撃が

腰に良くなかったのかもしれません。

そして足の指のしびれもこの頃に感じ始めるわけです。



でも、走り幅跳びは
実はその後、またやる時がやってきます。